2014年6月14日土曜日

おとうさん おかあさん

おとうさん

おかあさん

わたしここにいんで

しあわせやで

生きてるし

あなたたちふたりの

たったひとりのむすめやで

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23で結婚した母は
出産することが難しくて

ふたり子供を流した

自営業で田舎のうちは

とにかく跡継ぎが欲しくて

妊娠のたびに安静にするために
早くから入院していたと言っていた

そうしてできた待望の赤ちゃん

私には出産の経験はないから
どんなんだろう、自分の子供が産まれるって

わからないから聞いたんだ

お母さん、私がハタチのときの誕生日メールで
その時のこと書いてあったの、今でも覚えてる

『お母さんは早産ばっかりで、産んであげられなかった子が
ふたりもいて、でも産まれてきてくれた初めての子が直美、
あんたやったよ、ものすごく可愛くて可愛くて、将来ぜったい
嫁にはやらん、お母さんのそばにいさせるって思ったぐらい。

あんたは手のかからへん、でもよう泣く子で、本当にお父さんも
お母さんも困らせた。仕事がな、ちょうど繁盛してて、あんまり
誰も構ってやれへんで、寂しかったんやろね。保育所が嫌いで、

運動もできひんし、逆上がりもちょうちょ結びも何もできひんて、
給食も食べるんおそて、集団行動ができへんて、よく保育所の
先生に相談されたわ。辛かったし悲しかったけど直美、

いちばん辛かったんは直美やったんやろね。だから一人遊び
がとても得意になってしもたし、友達も作らなんだ。心配やった。

この子どうなるんやろって。お母さん。でも、今二十歳になって、
普通の娘になって、少々わがままやし、頑固で融通も利かへん
けどお母さんはうれしい。あんたを産んで本当に良かったと思う。

何度も話したけど”直美”の由来は、素直で、心の美しい子に
なって欲しいって。そうなれたかどうかはわからへんけどな、
これからは周りを大切に、自分も大切に、何より幸せに育ってな。』


ティッシュひと箱あけたの覚えてる

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その3年後、産まれた赤ちゃんは男の子で

待望の跡継ぎでそれはまぁ うちは
お祭り騒ぎみたいだったけれど

私は弟が可愛かったけど憎かった

何であの子ばっかり構ってもらえて
何であの子ばっかり名前呼んでもらえて
何でお母さんはあの子ばっかり付きっきり

でも弟は、私のことが大好きで

「おねえちゃんすきすきー」
私の後ばっかりついてた、不思議なくらいに

本当に仲良い、どこにでもいるふたりの姉弟だった

そしてどこにでもいる家族だった サザエさんに出てくるような
食卓と、厳しいおじいちゃん、優しいおばあちゃん、仲良い父母、

愛犬、父の仕事着、母のエプロン、19時にはNHKのニュース、
近所の幼なじみ、学校帰りに拾う捨て猫、みんなの秘密基地、

夏休みはカブトムシを取りに朝5時におじいちゃんと山へ行く、
家族旅行、私と弟の毎年必ずする誕生日パーティ、お墓参り、

そして私たちの成長
家族の暗黙のルール
商売人の家で育つこと

思春期と反抗期

覚えちゃいけない未成年のお酒と煙草
溜まり場になる友達の家、初めての恋

親離れ
子離れ

家族という名の、自然と起こりうる出来事すべてが

本当に、当たり前かのごとく流れていった

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22の時、弟が死んだ

あの時から家族の”何か”が変わった

家の感覚とか、役割とか、雰囲気とか、流れる時間とか、

それぞれの悲しみをどう癒すかとか、

それぞれ励ましあって生活するとか、

それぞれぶつけ合って最後には泣きあうとか、


食卓にひとつ空いたイスを誰も直視できなかった

そうして私が勝手に受け継いだ役はとても重くて
葛藤して受け入れてまた葛藤して受け入れて



そのまま時間だけが流れて
そのまま事だけが運ばれて

31になった今

私はとても自分を健全とは言えないけど
私はとても自分を普通とは言えないけど

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おとうさん。

おかあさん。

わたしいっつもここにいんねんで。

しあわせやで。

わたし生きてるで。

あなたたちふたりの

たったひとりのむすめとして生まれてきたんで。

愛情いっぱいもらったと思ってんで。

いまでももらってんで。

なんにもかえされへんけど なんにもできることあらへんけど

わたしがいることで ちょっとでもすくわれるなら

おとうさん おかあさん。

わたしを生んでくれて 育ててくれてありがとう。

ありがとう。

死ぬまでずっと、ずっと、ずっと。

人生全うするまでずっと、ずっと、ずっと。

あなたたちふたりは

わたしひとりだけの おとうさん、おかあさん。


2013.6.12

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